私が化学を選んだ理由(東京大学名誉教授・澤田嗣郎)
私が高校生の頃,理工系の大学に進学したいと思っていた。しかし,実際は化学よりも物理、数学の方が好きだった。ただ,化学実験は好きで,勉強の合間にホルムアルデヒドを合成して,その臭いを楽しんだり,アセチレンガスを発生させて遊んだりしていた(もちろん安全には十分気をつけて)。また,当時は家の近くにあった化学工場(ガラスエ場だったか?)には,誰でも勝手に潜り込めた。そこにはグラスウールのくずが無造作に捨てられていて,子供の私でも自由に持ち出すことができた。そのチクチク感をこらえながら,綿のような感触を楽しんだこともあった。
理科系大学を目指していたものの,化学に進むきっかけとなったのは,入試科目に物理と化学を選んだことであろう。私にとって,化学はどうも取つきが悪く,当時あまり興味を持てなかった。しかし一旦その原理を理解すれば,案外簡単にも思えた。そのため試験では100点満点中70点は常にとることができたことから,私にとってはある意味“美味しい科目”だったのである。
理科系の学部に入学後,専門学科の選択の時期になり,どの分野を選択すべきか大いに悩んだ。元々物理が好きであったので物理系の学科に進学するはずであった。しかし,当時日本の化学工業は高分子化学を主とする,もの作りに大きく方向転換をはかっていて,これに関連する工場も増加の一途をたどっていた。打算的かもしれないが,当時化学系の学生は,企業から引く手あまたの状況で,自分の力をどのようにでも発揮できそうであった。このことが最終的に私が化学系の学科を選んだ最大の理由であったと思う。
化学系の学科に進学し,卒業研究のテーマを決める時期となった。そこで私は,量子論を基礎におく新しい分光装置(時間分解分光装置)を試作するというテーマを選んだ。このテーマを選んだことが,物理好きの私のその後の化学者としての人生を決定づけたと思う。その後,ますます研究にのめり込み,修士課程—博士課程へ進学し,そのまま大学に残ることとなった。正直にいうと,ここまで化学にハマるとは思っていなかったのである。
しかし,化学的な現象を物理学の原理を元に説明したり,物理的に計測して理解する科学は,化学の新しい分野ではないかと直感した。また,このような化学ならば,人と違う新しい分野を開拓できるのではないかと新鮮なものを感じた。
同窓の仲間たちは,私とは異なり,化学を選んだからには合成化学を学んで世に出て行きたいと思った人が多かった。しかし,丁度この頃、英国のG.Porter教授が「フラッシュホトリシス法による反応中間体の分析」でノーベル化学賞を受賞された。これまで漠然と考えていた私の化学の方向は間違っていないと確信した。
以上のような経緯が,私が化学を選んだ理由の一つである。
化学だいすきクラブニュースレター第19号(2011年10月31日発行)より編集/転載