私が化学を選んだ理由(東京大学名誉教授・岩村 秀)
契機と師友との出会い
科学博物館通い
私が自然科学の道を選んだきっかけの一つは,上野公園にある国立科学博物館通いであった。国民学校(現在の小学校に相当)3年生の頃九州に住んでいたが,母方の祖母が亡くなり,葬儀やあとかたづけのため母と二人で上京する機会があった。上京していた1週間ほどの間,周囲に遊び友達もいない少年は,邪魔にならないよう,西片町(現在の文京区西片二町目)から毎日のように徒歩で上野の科学博物館に連れて行かれ,開館時から閉館時間までそこに放っておかれた。当時の館内は人影がまばらで,また参加体験型展示も限られていたが,退屈もせず隅々まで何度も歩き回り,天体望遠鏡,宇宙・地球の成り立ち,数々の動物・鉱物標本,飛行機や軍艦・製鉄所の模型等々,何がどこにあるか全て覚えたものである。青少年に科学の夢を持たせるという必要最低限の機能は備わっていた。
化学への導き
県立宮崎大宮高等学校で,津島捨巳先生の化学の授業,特にデモ実験に魅せられた。ただ単に二つの試薬をまぜると色が出るという簡単なものではなく,準備を要するものや多段階からなる一連の実験などが多く,化学実験の段取りを考え,装置を組み立て,次に何が起こるかを予測し,それがその通りになるか予測から外れるかを考える喜びを教えられた。
さらに拍車をかけられて
化学は自然界に存在する物質を分けて純物質とし,その多様な構造を明らかにしながら,化学結合の原理を確立していく学問として発達した。さらにそこで得られた知識を使って,自然界にある物質を人工的に製造し,また,天然自然に存在しない人工物を化学者自らの手で作り出す学問である。その深さとともに幅の広がりに惹かれた。大学の卒業研究で大木道則先生から頂いたテーマは,ステロイド骨格とは一見似ても似つかない構造をもつ合成品が,女性ホルモン作用を示すことがあり,「そのために備えるべき分子構造は」というものであった。今日の“環境ホルモン問題”を半世紀先取りしていたと言える。
師友
岡崎市の分子科学研究所(現自然科学研究機構同研究所)で,創設期に研究室を立ち上げ研究者として独り立ちする機会を得た。ここで初代の赤松秀雄所長に,当時の「大学でできない研究をやるように」といわれ,2代目の長倉三郎所長には「研究では走り出している車に飛び乗るようなことはするな」と忠告されたことを肝に銘じた。米国留学から帰国以来,有機化合物の反応の途中に生じる短寿命種を手がかりに,反応の仕組みを明らかにする研究を行っていた。この中に極低温では寿命が延び,磁性を示すものがあることに着目し,有機化合物で磁石を作ることができないかと考えた。当時,大阪市立大学の伊藤公一教授,東大物性研の木下實教授も異なる分野から同じような考えをもって研究を進めており,一緒に有機化合物の磁性に関する分子研研究会を世界に先駆けて開催した。この3人はそれ以来,時には共同でまた時には競争で研究を進め,「分子性磁性体の研究」を結実させ,25年後に日本学士院賞を共同受賞することとなった。
「身の回りの物の成り立ちを考え,その原理を学び,常識に疑問を持ち,新しい考え方,物質を作り出していく」,化学はとても生き生きとした学問であり,世の中の役に立つ技術に繋がっている。
化学だいすきクラブニュースレター第9号(2008年10月10日発行)より編集/転載