私が化学を選んだ理由(大阪大学名誉教授・園田昇)
時代背景に後押しされて
「どうして化学を選びましたか」と聞かれたとき,私は自分の過去を振り返ってみて若い皆さんに参考になるような言葉がすぐに見つかりません。でも皆さんの中には自分の将来の専門を何にしようかいろいろ迷っておられる人も少なくないのではないかと思います。そのような方の参考になればとの思いで,以下述べさせていただきます。
私が小・中・高校の教育を受けた12年間はちょうど太平洋戦争の戦前,戦中,戦後の混乱期に重なります。各種の統制,疎開,空襲,敗戦,食糧難,物資不足,インフレ,教育制度改革など,今では想像もつかない激変する社会の大波に翻ろうされていました。日本人の多くが生きることに精一杯の時期であったと思います。中学・高校のとき私は理系科目が好きでしたが,高校の化学は学習内容が不足していたため,大学受験には物理と生物を選択せざるを得ませんでした。しかし大学の教養課程を終え専門課程にあがる時,迷ったすえ応用化学科へ進むことに決めました。これは次の理由からです。高校化学の知識がたりなかった私にとり,大学で学ぶ化学は新鮮であり興味を覚えていたところに,戦後の社会の復興のため新しく石油化学を導入し,暮らしの充実と安定を図るという新政策が時の政府により決められました。こうした化学工業への期待が高まる時代背景に,私の気持ちが動かされたわけです。当時の石油化学研究のリーダーであった大阪大学堤繁教授の直接の指導を仰ぐ機会を得て,研究への意欲が強くわき起こり,大学院へと進みました。
化学の道に進んでほんとうに良かった
石炭と水と空気から天然にはないナイロンが化学の知恵で創られ,さらに同じものが石油から楽に合成できることを知った時,物質を変換させる化学の力強さに圧倒されました。さらに各種プラスチックス,合成繊維,合成ゴム,医薬,農薬などが続々と化学の力で生み出されました。私たちの生活を豊かにする主役を化学が担い,自分も研究者としてその役目を担当していることを認識したとき,化学の道に進んでほんとうに良かったと思いました。また化学への興味はみずからの実験によりさらに深くなりました。実験では予想もしない結果が出たり,不思議な現象に出くわすことがあります。これを見逃すことなく追求し,新原理の構築に結びつけることができたときは,言い知れぬ感動と充実感にひたりました。
化学への期待はますます大きく,そして広く
化学の道に入ってから半世紀余りを過ぎた現代に目を移すと,化学と化学工業の進歩は目覚しく,私たちが日頃受けている恩恵ははかり知れないほど大きくなっています。また今日,生体を含むあらゆる物質の性質や変化を原子,分子のレベルで解き明かす化学の役割は特に重要で,広く医学,薬学,生物学,材料学,応用物理学などの土台を化学が築いています。そしていま地球規模で直面している環境問題,エネルギー問題,食糧問題,資源問題などの諸課題は,どの領域であっても化学の知恵と力なしにその解決策を見つけることはできません。今後の化学の発展と貢献は,若い皆さんの双肩にかかっています。
化学だいすきクラブニュースレター第7号(2008年4月20日発行)より編集/転載