私が化学を選んだ理由(東京大学名誉教授・田丸謙二)
結果として選んだ化学
何故「化学」を選んだかについては人によっていろいろと理由があるものである。優れた先生に教わったからとか,実験が面白かったとか,それも幾つかの理由が重なるものもある。中学高校で学ぶ化学を通して一生の選択をするのも致し方ないことではあるが,私が皆さんに言いたいのは,中高校で学ぶ化学は,大学,大学院で学ぶ化学とは非常に異なるものであること,「化学」を選んだきっかけというよりもむしろ,結果として「化学」を選んだお蔭で本当に楽しく幸せな選択であったということである。私が旧制中学で初めて学んだ「化学」は全くの暗記物で,成績も全ての科目の中で最悪であった。普段成績のことは何も言わなかった化学者である父(元日本化学会会長)から,「化学は何が解らないの?」と尋ねられて困ったことを覚えている。解らないのではなくてつまらなく,嫌いだったのである。そのとき父が一言言ったのは,「大学での化学は中学のとは全然違うよ」ということであった。旧制高校に進んで学んだ「化学」は中学の時とは全然違って面白かった。結局大学の化学を受験したのは,その面白さもさることながら,今考えてみるとやはり化学者であった父の背を見て選んだことが大きかった。如何にも主体性がないようだが,丁度医者の子供の多くが医者になるのに似ているといえるだろう(父は前世紀の初めにドイツのハーバー(写真)の研究室に留学していた。ハーバーは空気中の窒素の固定で1918年にはノーベル賞を受けている)。
上に進むほど化学は面白い
私の場合幸いにして父が化学者として心豊かに暮らしていた姿を見て育ったお蔭ではあるが,現在の日本で教えている「化学」は,例えば高校の教科書からして,英米のものと比べると質的,量的に格段に劣ったものである。理論性も乏しく考える基本もろくに書いてない。その教科書から大学入試問題が出るので,良い入試問題が出来るはずがない。ノーベル化学賞を受賞された福井謙一先生も,「今の大学入試は若い人の芽を摘んでいるんですよ」と言われていた。高校の「化学教育」は入試に備えて教えることが多いだけに,「化学大好き」にならないように「詰め込み教育」をする仕組みになっている。面白いはずがない。しかし本当は上に行くほど化学は面白くなる。「化学」は我々の身体の中での変化,食べる食品,もの作り,全てが化学であり,その本性はまだまだ分かっていないことだらけである。私は触媒化学を専攻したが,学べば学ぶほど本当に面白かった。世の中の大半の化学反応は触媒作用によって進む。それらの世の中の基本的な面白く新しい問題と取り組み,実に楽しく生き甲斐を感じるものであることを私の経験を基に自信を持って申し上げたい。「化学」はとても面白く重要な学問であることを。
化学だいすきクラブニュースレター第5号(2007年10月10日発行)より編集/転載