化学だいすきクラブ

私が化学を選んだ理由(東京大学名誉教授・本多健一)

この記事を書いた人: 本多健一 Kenichi HONDA
1990年度日本化学会会長 東京大学名誉教授 「本多-藤嶋効果」で有名 [専門]応用化学
東京大学名誉教授・本多健一氏

万華鏡の変化-化学のロマン

エジソンに憬れる

1930年代、小学校低学年の頃であったが「エジソン伝」という子ども向きの伝記本を親が買ってくれた。読んでいくと電燈のことが出てきた。当時は白熱灯といわれる裸電球を部屋の真ん中に吊るして照明をおこなっていた。エジソンは炭素繊維のフェラメントを白熱して光らす電球を発明し、いろいろな繊維で試してみたがなかなか良いものがない。苦心惨憺(くしんさんたん)の結果、最後に日本の竹の繊維を用いたところ、これが思いがけず一番良いものであり実用化に成功した。そのいきさつが極めて印象的であり感銘を受けた。

当時家庭の娯楽といえば手廻しの蓄音機でSPのレコードを回転させ音楽や歌を聴いたものである。この方式の実用化もエジソンの発明である。電話の受信器、送信器も然り。気がついてみるとその頃家の中で便利なもの、新しいものはみんなエジソンの発明であった。こういうことに子どもながら心を打たれた。

大人は子どもに向かって「大きくなったら何になりたい?」とよく尋ねる。子どもは大臣になりたいとか大将になるんだと無邪気に答える。私はそう問われた時に「エジソンのようになりたい」と答えたので大人たちは「ほう」とびっくりした顔をしていた。もちろんこの頃に科学とか技術ということをしっかりとわかっていたわけではなく、エジソンが小学校の教育もろくに受けず新聞売り子をしながら刻苦奮励した姿と、彼の天才的なひらめきに幼心に感動したからであった。

心に触れる変化 -化学のロマン-

中学に進むと代数、幾何、物理、化学、博物等の理科の授業が始まった。「エジソン伝」により感動した結果は、はっきりした意識ではなく、何となく私の志向を理科に向かわせることとなった。

化学は生徒にはまだ実験をさせてはくれず、先生が授業の中で見せてくれた。希塩酸に亜鉛の粒を入れると水素が泡となって勢いよく発生する。これを水面上で容器に捕集し火をつけて燃やす実験があった。先生がマッチの火を持っていくと「パン」という感じの弱い音がして、一瞬青い光の焔が見えて終了する。先生には大変失礼であるがその時先生が怖そうに顔をそむけて火をつけられる様子が大変おかしくて今でもよく思い出される。

このようなことの積み重ねにより、色や形の万華鏡のような多彩な変化を伴う現象に興味を持ち、次第に化学に親近感を持つにいたった。代数や物理は何というか、あまりに整然としていて近づきがたい印象を持った。

高校(旧制高等学校)に進んだ時は第二次大戦下で勤労動員に狩り出され、十分な教育を受けることができなかったが、工場の作業が終るとそこの青年学校の校舎を借りて授業を受けた。化学の授業は小島穎男先生(後に東京大学教授)で、先生の思索的なお話と風貌から大きな影響を受け、学者、研究者という生き方に引かれるものを感じるにいたった。

そういうことで大学への進学は思い迷うことなく工学部応用化学科を志望した。

私が化学を選んだ理由を考えてみると何か運命的な転機があったからではなく、大学に至るまでの間の化学との触れあいの積み重ねが親近感を深めてくれたからである。単純にいえば好きだったということになるが、このことを後になって考えてみると未知なる変化を秘めた化学現象が夢とロマンを伴い私の感性に響くものがあったからであろう。

化学だいすきクラブニュースレター第2号(2007年2月15日発行)より編集/転載

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