活躍する化学 香りと化学の話 ~鏡像体と香料~
鏡に映ったモノを複製する,そのような夢のような道具はマンガや物語などでよく登場します。しかし,鏡に映ったものは見た目がそっくりであっても,左右が反対になってしまいます。そのため,どこか性質が違っているなど残念ながら役には立たないということはよくある話です。
化学の世界でもこれと同じようなモノがあります。それは鏡像体と呼ばれる,同じ構造を持ちながら左右反対の対になる化合物の関係です。これはしばしば手袋で例えられます。右手用の手袋は右手にぴったりはまりますが,左手にはうまくはまらず,使いづらいものになります。つまり鏡像体は,姿かたちは似ていますが化学的な性質に異なる部分が出てきます。
さて,私が働く香料会社では飲料や食品,化粧品などに香りをつける香料を製造しています。香料は天然からの抽出物や合成された化合物などといった原料を購入し,それらを組み合わせてイメージ通りの香りを製造しています。中でも柑橘系の香りは,皆さんも飲料,お菓子や化粧品で嗅いだ経験はあると思います。柑橘系の香料は,主には天然の果実から採取した精油(注)を基に,合成原料などを加えてより香りの個性が出るように製造されます。
(注)精油: 植物から抽出される揮発性のある油分。オレンジなどの柑橘類からは外側の果皮をつぶしたときに出てくる油分を採取して得られます。
柑橘類には,数多くの香気を持った化合物が含まれていますが,その中の一つにリナロールという化合物があります。リナロールは図1の通り,各原子をつないだ構造を持った化合物で,左右のような鏡像体を持っています。左側がd体(d—リナロール),その鏡写しである右側がℓ体(ℓ—リナロール)と呼ばれます。右側の図を頭の中でどのように回転させても左側と一致することはありません。
これらは人の鼻で感じられる匂いが異なり,d—リナロールはジャスミン様の香りがしますが,ℓ—リナロールはラベンダー様の香りがします。このリナロールを人工的に合成するとd体とℓ体が1:1で混ざってしまいます。これを分離するにはさらに特殊な作業が必要です。しかし,自然界では鏡像体の作り分けがうまくできるため,その存在比率に偏りがみられます。例えば,レモンは合成品と同じようにほぼ等量ずつ,オレンジはほぼd体のみ,ユズは逆にほぼℓ体のみ,グレープフルーツはd体とℓ体がほぼ3:1というように柑橘類の中でも違いがあり,それが香りの個性の違いを生む一要素となります。
今お話ししたことは数多くの知見の中の一つですが,このようなデータをもとに,人の手でわずかな香気の差異を識別することで,また分析機器で測定することで,本物と偽物を識別することができます。また,逆に鏡像体の割合を人為的に調整することで,より安価に本物らしい香りに近づけることも可能になります。香料会社ではこのような知識を身につけてわずかな香気を嗅ぎ分ける熟練社員の技と分析データを用いた知見とを組み合わせることで,本物以上に本物らしい香りを持った安心・安全な製品をお届けしています。
化学だいすきクラブニュースレター第45号(2020年7月1日発行)より編集/転載