私と化学(東レ株式会社 副社長執行役員・阿部晃一)
私の化学の原点は高校時代にあります。私が学んだ高校の化学と物理の授業は,基本原理をマクロなモデルに置き換え,実験で体感することの繰り返しでした。教科書はそっちのけで,化学の先生がノーベル賞受賞者の名言について熱弁をふるう中で,パスツールが言ったとされる「Chance favors the prepared mind」にとても共感を覚えました。「幸運の女神は,問題意識を持ち続けている人に微笑みかける」と理解し,今も私のモットーにしています。また,プラスチックケースに詰まった大豆の数を推定する問題が出された時,まともに計算しようとすると時間切れになるのです。これには面食らいました。実は“直観”の重要性を教えるものでした。こういった一風変わった授業で,私の化学や物理への好奇心はますます掻き立てられていきました。
大学時代は,「実験する前に答えを予測せよ。実験は確認である」「実験する前に,その実験が本当に必要か否かを十分に考えよ」「2時間実験をしたら,最低でも,現場で,その2倍は考える時間を取るようにせよ」といった研究の心得を叩き込まれました。そんなある日,実験手順の変更で,従来の予測とは全く異なる現象が偶然起こり,指導教授から「君の研究を企業に特許出願してもらうことになった」と聞かされました。
その特許を出願してくれた企業,東レに入社しフィルム研究所に配属されました。ここでも一つの研究テーマを行っている時の「小さな気づき」や「問題意識」が,次のテーマ設定やアプローチ法のヒントになって,つながってきたように思います。東レでは“深は新なり”あるいは“極限追求”と言って語り継がれていますが,私はそれを貫いた結果,NEST(New Surface Topography)という磁気テープ用の薄膜積層技術を開発し,大河内記念生産特賞を受賞することができました。みんなが諦めていた「フィルムの表面粗さと摩擦係数のジレンマにメスを入れるのだ」,という問題意識を持ち続けていたからこそ,薄膜積層技術を着想でき,それを新たな価値につなげられたのだと思います。周囲から見るとゼロからの新発見に見えるかもしれませんが,そのきっかけは決してそうではないのです。「常識と論理のみを大事にする集団にはイノベーションは期待できず信念がそれらより重要」と言ったシュンペーターの言葉も実感しています。
ここまで「私と化学」を読んでくれた皆さんにも,「Chance Favors the Prepared Mind」という言葉を贈ります。この言葉はきっと化学と皆さんの未来を切り拓く支えになってくれるでしょう。ノーベル賞受賞者だけでなく,私自身が,その言葉に支えられてきた人の一人ですから。
化学だいすきクラブニュースレター第54号(2023年7月1日発行)より編集/転載