私と化学(東京大学大学院 教授・塩谷光彦)
化学で表現する
私たちは日常生活の中で,自分の心にあるものを伝えること,すなわち「表現」する機会がたくさんあります。「表現」には,新しいものを生み出し,ひとを感動させる力があります。例えば,言葉をならべて文章を作る,音で曲を奏でる,線や色を使って絵を描くことは,芸術の発展にもつながります。このように,「表現」はさまざまなことと関係がありそうなので,この機会に「化学」についても考えてみました。
初めて計画して,苦労して,感動した実験は,ごく簡単なものでした。中学1年生のときと記憶していますが,父の万年筆の黒インクを習字用半紙に垂らした,というごく簡単なものでした。スポットが広がり,またたく間に虹のように色が分かれ,思わず「おぅー!」と感動してしまいました。実験というものは,いろいろな条件でおこなう必要があることを知ったのもこのときでした。最初は,ちり紙や新聞紙の上に,醤油,ソース,マヨネーズ,ラー油,靴墨…結果は臭いだけ残って悲惨でしたが,たくさんの実験をして苦労して虹を見つけたときは,大変新鮮な気持ちになりました。この実験が化学実験であるとわかったのは,しばらく経ってからでした。
大学では,周期表にある元素の原子をつなぎ合わせて,新しい物質を作る研究室の門を叩きました。このとき,炭素と炭素をつなげるような頑丈な物質(分子)を作ることが化学のものづくり(有機合成)と思っていましたが,研究室では,比較的弱い力で元素と元素を緩やかに結合させるものづくり(超分子合成)を学ぶことになり,これが現在でも研究の二本の太い柱になっています(下図の左の4つの分子はノーベル化学賞の対象になったもの。右の図は,当研究室でつくったものです)。
化学のものづくりでは,周期表の118種類の元素からいくつかを選んで,それらを結んでいきます。その組合せは無限です。皆さんも少し化学を学べば,紙と鉛筆で心に秘めた新しい分子を思い描き(表現!),マイ分子を作ることができます。凄い分子は,ひとを感動させることもできます。化学の研究は,一人ではなかなかできないので,心から共鳴してくれる仲間と一緒に進めます。私もまだ道半ばですが,化学と化学,人と人,化学と人の思いがけないめぐり会いが,新しい息吹をもたらすことをいつも楽しみにしています。
化学だいすきクラブニュースレター第55号(2023年12月1日発行)より編集/転載