化学だいすきクラブ

私が化学を選んだ理由(株式会社日本触媒・近藤忠夫)

この記事を書いた人: 近藤忠夫 Tadao Kondo
2013年度日本化学会副会長 株式会社日本触媒相談役
株式会社日本触媒・近藤忠夫氏

私が小学校に入学する前年(1950年)頃に,1949年にわが国初のノーベル賞を受賞された湯川秀樹博土が新潟県長岡市で講演をされました。その日私は母に連れられて講演を聴きに行き,講演終了後母と一緒に湯川博士に面会・懇談し,頭を撫でてもらった記憶があリます。母の父と湯川先生のこ尊父とは同じ大学に勤め,かつ家が近所で母が幼少時に“秀樹さん”によく遊んでもらったという縁で面会できたようです。講演の内容は全く理解できませんでしたが,直接湯川先生にお会いできたことに私は強く感激し,将来自分も立派な学者になりたいと子供心に思いました。そして漠然と湯川先生と同じ京都大学に進学したいと思うようになりました。結局,学者にはなれず,物理ではなく化学を選び化学企業で研究開発の道を歩むことになりました。

私は1944年愛媛県生まれですが,翌年父が亡くなり,4歳から長岡の父の実家に移り,祖父と2年間程同居し,祖父の死後も,高等学校卒業まで長岡で暮らしました。

小中学生時代は自然豊かな田舎の川で魚釣り,田んぼでイナゴ獲り,山で山菜・きのこ採りなど野山を駆け巡って遊んでいました。通常の田舎の自然と一風変わった事といえば,少し奥山に入ると,戦時中に掘削した石油坑井の跡にまだ黒い原油が溜まっていたり,湧き水から同時に天然ガスが出ていたりしていたことが思い出されます。さらに後年長岡の平野の向こうに天然ガス坑井のやぐらから炎が見えていました

私が化学を選んだ理由は,ほとんど顔も憶えていない父が京都大学工学部工業化学科を卒業後,化学企業に勤めていたことを母から聞いていたからだと思います。おそらく,32歳という若さで亡くなった父の無念を晴らしてあげたいという母の願いを感じていたからでしょう。合成化学科を選んだのは当時石油化学が日本でも隆盛を迎えつつあることを感じており,かつ故郷の自然の中で触れた石油や天然ガスに対する親近感からだったでしょうか。

製造業の経営に携わった私の経験から若い人たちに申し上げたいことは,企業では理系,文系を問わずそれぞれの分野で専門知識を身につけ,レベルの高い専門家として実務経験を積みながら総合的な経営能力を身に付けてほしいということです。大学進学時の分野の選択で大切なことは,素直に好きになれそうな分野を選ぶということです。そしていったん分野を決めたら一度はとことんやってみることです。そうすれば必ず本当に好きになれるものです。

写真
写真: ガス坑井のやぐらの炎(イメージ画像)

化学だいすきクラブニュースレター第25号(2013年10月18日発行)より編集/転載

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