私が化学を選んだ理由(理化学研究所・玉尾皓平)
私は,生まれ故郷の香川県の西の端の観音寺市(旧三豊郡一ノ谷村)の片田舎で1949年から小中高に通い,1961年,京都大学工学部合成化学科に入学しました。なぜ私が化学の道に進んだか,その理由を香川で過ごした10数年間の「家庭」「自然」「恩師」「時代」の四つの要因で振リ返ってみましょう。
内科小児科医の父と薬剤師の母の二人だけで看護婦も居ない小さな開業医の家庭で子ども時代を過ごしました。終戦直後であったため,我が家は開業医とはいえ貧乏で,麦やサツマイモの沢山入ったこ飯しか食べられませんでしたが,自然いっぱいの中で遊んだ楽しい思い出は尽きません。ほとんどの野菜類は自給自足,井戸水は消し炭などを敷き詰めた大瓶で浄化しました。溜池や小川ではゲンゴロウやアメンボウ,フナやドジョウ,イモリなどと戯れ,その土手はワラビやツクシの宝庫でした。小中9年間は昆虫採集に明け暮れ,石鎚山や剣山にも登り,四国の蝶はほとんど採集,標本にしました。そして家では,薬ビンの棚のある薬局で調剤をする母の傍らで薬包紙を包む手伝いをしたものでした。重曹NaHCO3はドイツ語でナトリウムビカルボナートというのだということ,そして重曹を,庭で採れた夏みかんを搾ったジュースに少し加えてラムネを作り,酸に重曹を加えると炭酸ガスが出るのだ,というようなことを自然に覚えたことでした。自然に親しむ普通の理科好き子どもに,家庭で化学が+アルファされたようです。
小中高では理科,化学,数学の素晴らしい先生方に恵まれました。中学校では植物採集が大好きな先生に,そして高校では黒板に完璧な円をチョークで描く数学の先生に,それぞれ3年間担任してもらい,理系生徒に仕立て上げてもらいました。数学は幾何の問題が大好きでした。補助線がひらめいた時のあの快感が好きなのですね。化学の道に進んだ後の,新しい研究テーマがひらめく時の快感には共通点があります。高校では化学部ではなく,美術部に入って,石膏デッサンや油絵を大いに楽しんだものです。化学も好きですが,建築にも興味がありました。
時代は戦後復興,高度成長期の真っ只中,そして世界的な科学技術勃興の最中にありました。小学校に入学した1949年に湯川秀樹博士がわが国初のノーベル賞(物理学賞)を受賞し,教室には湯川博土の写真が飾られ,皆さんも将来はノーベル賞をもらえるように頑張りましょう,と鼓舞されたものでした。中学生だった1957年にはソ連の人工衛星スプートニクが打ち上げられ,明け方に我が家の屋根に上って,中天をスーッと進む光跡を追い,興奮したことでした。高校の化学の教科書にはわが国初の合成繊維ビニロンの発明者桜田一郎博士のことが書かれていました。そして,高校に特別講演に来られた大学の先生から,プラスチックの時代到来の話を聴き,僕も新しいプラスチックを作るぞ,と心躍らされたことでした。そんな元気の出る時代でした。
そして,大学入試,建築にしようか,化学にしようかと,悩みましたが,高度成長期に新設された合成化学科に入り,建築デザインではなくて,分子や反応をデザインしてきました。化学に進んでよかった。化学は元素の特性に着目して,新しい物質を生み出せる唯一の学問分野であり,これからの持続可能社会を先導する学問の中核を担うのですから。
家庭,自然,恩師,時代の四つの要因の相乗効果が化学の道に進ませてくれたのでしょう。今の子どもたちが心踊らされるようなこれらの要素を作り上げるのは私たちの責務です。その意味で,「化学だいすきクラブ」の活動は大切にしたいものです。
化学だいすきクラブニュースレター第22号(2012年11月20日発行)より編集/転載